Interview

  • 2023.06.28

「下劣なことはやりたくなかった」VICE Japan創設者たちの苦悩と本音

かつて「VICE Japan」を創り上げた男たちの本音──

「下劣なことはやりたくなかった」VICE Japan創設者たちの苦悩と本音

クリエイター

この記事の制作者たち

世界30ヵ国以上に支部を持ち、デジタルメディアの寵児と言われた「VICE」。

その規模は、VICE単体で月間5000万ユニークユーザーを超え、VICE関連のメディアも含めると月間2億5000万~3億ユニークユーザーと、他を圧倒する勢いと存在感を見せつけている。

1994年にパンクやドラッグなどを取り扱うフリーペーパーとして始まったVICE Mediaは、音楽、ファッション、アート、スポーツに代表されるエンターテイメントから、時事、政治、戦争、イデオロギーに至るあらゆるトピックを扱い、ネット発のメディアとして初めてエミー賞を受賞するなど、20年以上の時を経て世界37カ国に拠点を置く巨大メディアカンパニーへと成長した。

しかし、2023年にはグローバルニュース事業全体で人員削減を行い、5月にはVice Mediaはついに破産法適用を申請するに至った。

VICE破産という衝撃ニュースから遡ること約10年前の2012年には、ここ日本でも「VICE Media Japan」が始動した。そしてその創設メンバーこそは、知る人ぞ知る2人のタッグだった。

それが、伝説のオルタナティブ・ロックバンド「54-71」のボーカルである佐藤 Bingo 慎吾氏、同じくベースである川口賢太郎氏である。

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ヤクザの実態にドラッグ生成の現場、若かりしBAD HOPやKOHHへの密着取材──独自の切り口でこの世界に焦点を当てて耳目を集めた「VICE Media Japan」。その創業代表をつとめた佐藤 Bingo 慎吾氏、初代編集長をつとめた川口賢太郎氏に、現役時代である2016年にKAI-YOUではロングインタビューを行っている。

飛ぶ鳥を落とす勢いだったデジタルメディアの”中の人”たちは、当時何を考え、何を伝えようとしていたのか。佐藤・川口両氏の取材はメディア初だった。

なお、佐藤・川口両氏は2019年にVICE Media Japanから独立。翌年2020年にはOrganization LLCを設立。現在は「ナラティブを知る」に特化したコンテンツの制作および発信や、ヒーリングミュージックレーベルAstral Archivesの運営などを行っている。

※本稿は、2016年に「KAI-YOU.net」で配信された記事を再構成したものとなる

取材・構成:織田上総介・新見直 撮影:時永大吾

目次

  1. 周囲に馴染めない同士が惹かれ合った
  2. ロッキングオン編集長を脅したり……全部が面白かった
  3. 「VICEがヤバいぞ」
  4. フロントマン、ヘッドオブコンテンツ…でも違和感がある?
  5. 「ふざけてもいい。けど、下劣なことはやりたくない」
  6. 「俺が殺されるということは、俺も殺していいんだな」
  7. 「不安しかない」
  8. 「Webを信じきれてはいない」
  9. VICEのビジネスモデルとは?
  10. 本当の動画時代はこれから
  11. VICE Japanの根本は“パンチ”

周囲に馴染めない同士が惹かれ合った

VICE Media Japanインタビュー佐藤ビンゴ・川口賢太郎

──VICE Japanを運営されているお二人の出会いのきっかけを教えてください。

川口賢太郎 学生の時ですね。大学自体(慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス「SFC」)、あまり自分と合う雰囲気じゃなくて「ソリが合う人いないなー」と思ってたら、初めて佐藤を見かけた時にキテレツな格好で、「なんか変な人いるな」って。

だって、32年前の当時、紺ブレ(紺ブレザー)の流行が終わる頃に紺ブレにベティ(ベティ・ブープ)ちゃんのTシャツを着て、セカンドバック持ってたんですよ(笑)?

そのセカンドバックもよくよく見たら「レノマ(renoma)」のバッタもんで、頭文字がNになっている「ネノマ(nenoma)」になってて、「あぁ、すごい人がいるな」と思って僕から声をかけました。

佐藤ビンゴ 川口は東京出身なんですが、僕は横浜出身なので、流行のタイミングに差異があるんですよね(笑)。

川口はガタイも良いし、何回洗ったんだろう……と感じるような青いパーカーを着ていて、髪は長く、エンジニアブーツみたいなものを履いていたので、怖かったですね。迫力が……人間力が高そうだなと(笑)。それが18歳くらいの時かな。

川口賢太郎 こまっしゃくれた大学だったので、周りにはスカした奴しかいなかったんですよ。

佐藤ビンゴ あー……英語で話す講義があったり、当時は、ムカッとするような気持ちはあったね。

──音楽を通して出会ったわけではないんですね。

佐藤ビンゴ それまで、親に言われてピアノをやっていたくらいです。小学生の頃はバレると「ダセェ」と言われると思って、ひた隠しにしながらやっていましたね。

──佐藤さんはいわゆるボンボンな生まれだったんですか?

佐藤ビンゴ 全然。どちらかというと中流でしたね。それこそ大学に行ったら周りがボンボンだらけだったので。

川口賢太郎 どこかの御曹司みたいな奴らが多くて、逆に「普通がいけないのかな?」と思うくらいでした。

──そんな中で、やや周囲に馴染めなかった2人が惹かれあった?

川口賢太郎 自ずとそうなるじゃないですか。似たような人間が集まって、でもボンボンの世界も面白そうだから、良いベース持っているヤツをバンドに誘ってみたり……

佐藤ビンゴ エフェクターとか買わして、奪うとか……(笑)。

川口賢太郎 まあ……そうですね。

ロッキングオン編集長を脅したり……全部が面白かった

VICE Media Japanインタビュー佐藤ビンゴ・川口賢太郎2

──なぜそこから始めたのがバンドだったんですか?

佐藤ビンゴ 音楽に詳しい川口から「なんじゃこりゃ」みたいな音楽を聞かされ続け、「なんて汚い音楽なんだ!」と思いながらだんだんハマっていき……聞いているうちに「自分でも出来るのかな」と思い始めたんですよね。個人的には、音楽で飯が食えたらすごいなと思いましたし。

川口賢太郎 SFCって都内からとてつもなく遠くて、何かやるならそこでやるしかないようなところがあって。かといって、ボンボンの間に入ってテニスなんてできないし……

佐藤ビンゴ 下手こいてテニスで負けたら負けたでムカつくなというのもあるよね(笑)。

川口賢太郎 しかも、俺らからしたら、周りのみんなは食べに行くところが高いんだもんね。佐藤が普通に家庭教師やるのと、ボンボンが人づてで家庭教師をやるのでは、時給が3倍くらい違うとか、そういう世界だから。だから自分たちだけの方がやりやすかったのもありました。

──気の合う仲間となにかをやろうとした結果、たまたまバンドだったと。

川口賢太郎 そりゃテニスとかダンス以外に面白いことがあればやったんだけど。バカな学生の範囲内で、バンド以外のくだらないこともやっていましたし……(笑)。

──その後、2人を中心に結成したバンド「54-71」(ごじゅうよんのななじゅういち)の勢いも出て、当時NUMBER GIRLというバンドをやっていた向井秀徳さんにもプッシュされ、順調だったように思えます。にもかかわらず、なんでバンドは辞めてしまったのですか?

川口賢太郎 みんなそれぞれあるだろうけど、俺は面白くなくなったんだよね。結局、決まりごととかそういうのが嫌で、大学まで行って音楽なんてものをやっていたのに、金を稼ぎ出しちゃうと堅苦しくなって、普通の会社員の方たちと変わらないなと。

佐藤ビンゴ 確かにマネージャーが付いたり、運転とかしてくれたりしてたよね。

川口賢太郎 デカくなっていくと、音楽で食ってかなきゃいけない人が、僕ら以外にも増えてくるし。そうするとだんだん息苦しくなってくるんですよね。

しかも、話題になったのも偶然ですよ。向井(秀徳)がキャッキャ言ったから(売れ始めた)ということも無きにしも非ずでしたし。

佐藤ビンゴ でも、彼が興味を持ったきっかけはさ、自分たちのCDを東芝EMIの郵便ポストに投げ込んだりしたからじゃなかったっけ。

川口賢太郎 そうそう。当時は全部が面白かった。『ROCKIN'ON JAPAN』の編集長を脅すとか(笑)。編集長がどこぞのバンドと飲み会をやっていると聞いたら、その居酒屋のテーブルに飛び込んでみたり。

──「俺らを載せろよ」みたいな?

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