連載 | #3 LGBT表現が生まれ、送り出される現場

「漫画を啓蒙活動にはしない」 トミムラコタ『ぼくたちLGBT』インタビュー

子供を持つバイセクシュアルの自分と

──辛辣な意見も寄せられたということでしたが、エッセイとして描くこと、つまり自分自身を漫画で描くことについての恐れはなかったのですか?

コタ 漫画内で使う言葉の表現には気をつけましたが、自分のセクシャリティを公言することに対する恐れはなかったです。

『ぼくたちLGBT』を描き始めたのが、ちょうど離婚した年だったんですけど、多分、気にする場所がなくなったのが一番大きいかもしれないです。元夫の両親や親戚を気にしなくていいし、私の両親に知られたところで「別に…」っていうところがあったので。

──踏み込んだ質問をさせていただきますが、コタさんはお子さんがいることを公表されています。漫画として発表されているので、お子さんは成長する中で「お母さんはバイ」ということがわかると思います。そこに対しても恐れはなかった?

コタ なかったです。というのも、私の中学の同級生に「お父さん、バイなんだよ~」って言う同級生がいたんですよ。で、みんな「へ~」みたいな反応をしてる印象があったので。

今、娘は6歳なんですけど、ちょっとずつジェンダーフリーな感じを吹き込んでいます。

やっぱり子供なので、保育園とかで「このおもちゃは男の子が遊ぶものだよ」とか「女の子はピンクなんだよ」って言うんですよ。私は「そんなことないよ」って言いますし、娘が「男の子と女の子が結婚する」って口にした時には、「今、(海外では)男同士でも結婚できるんだよ。知ってる?」って言います。

娘は偏見がないように育てよう、とは思っていて、もしかしたら思春期に反発があるかもしれないんですけど、そこにはあまり抵抗を感じていません。むしろ、娘の友人にバイセクシュアルがいたら「あ、うちの母親、そういう漫画描いてたぜ!」って言えるような子になってもらいたいな、と ──娘さんとしっかりと向き合うことを前提に、自身のセクシャリティを公言することに恐れはなかった、と。

コタ そうです。……あ、こういうこと、漫画に描けばよかったですね(笑)。

まだ娘が小さかったこともあって、子供についてどう描けばいいのか、わからなかったところがあるんですよね。

あと、結婚していたことを大きく取り上げるのは怖かった部分もあります。「なんだ、結婚してたんじゃん」とか「子供いるんじゃん。幸せなんじゃん」という批判的な意見が来るんじゃないか、ということを勝手に妄想してたんです。

同性間では(生物学的には)子供が持てないというのもあるので、何をどう伝えるか、描き方を気をつけないといけなくて、連載中は描けなかったというのはありました。

“怒ってるLGBTの漫画家”とは思われたくない

──取材をして漫画に落とし込む際に、気をつけた点はありますか?

コタ 言葉の言い回しや表現、単語は一番気をつけていました。

それと、私自身が強い主張を持って「絶対にこうだ!」というふうに断言しない、というのはモットーにしていました。この作品をLGBTの啓蒙活動にはしない、と最初に意志を固めていたんです。

LGBTの教科書ではないので、用語解説も最低限にしています。だから、人によっては“主張がない漫画”と捉えられるかもしれません。

山口 ほとんどネーム一発OKでしたね。ヘテロである私の目線から「この単語がわからない」という時に、注釈を足すくらいでした。

『ぼくたちLGBT』2巻

──作品のコンセプトとして、最終回でも「啓蒙活動にはしない」と描かれていました。その理由は?

コタ ひとつは、さきほども言ったように、LGBTに関する"入り口の入り口”として、手に取ってもらいたい本だったからです。

あとは、“怒ってるLGBTの漫画”にしたくなかったんですよ。もちろん、今の世の中には強いメッセージを発する方も必要だと思うんですけど、私自身だったり、そうじゃない人も少しずつ表に出ていけたらいいな、って。

山口 あくまで漫画作品として楽しんでもらいたいのであって、「差別をなくそう」が作品の目的ではなかったですしね。

コタ 最近、ヘテロの方が「LGBT=面倒くさい」と思っている空気も少し感じています。特にネット上だと。

それで、ただ“怒っている面倒くさい漫画家”と思われてしまうと、どんなイメージも悪くなってしまうでしょうし。

私自身、活動家としては知識が乏しいということを自覚もしているので、軽い気持ちで読めるエッセイ漫画にしたいと思ってました。

──一概には言えませんが、強いメッセージを発するLBGTの人としては、「LGBTが差別されている現状をどうにかしたい」という気持ちを持っている場合もあるかと思います。

コタ 私自身、もちろん世の中に言いたいことはたくさんあるんですけど、ほかの方のお話で聞くような息苦しさは感じてないのかもしれません。

それよりも、ネットやメディアを見ていると「結局、LGBTというのは〜」というふうにまとめられてしまうこともあるので、“LGBT”という塊ではなく、もっと個を見てほしいという気持ちの方が強かったです。だから、私の体験談だけじゃなく、ほかの人のことも積極的に描くようになったんです。

──それは、コタさんの中でのバランス感覚でもある?

コタ バランスには気をつけていました。

あと、LGBTに対する強い差別というよりも、「私はLGBTに偏見はないんだけど……」と言ってからの否定的な意見をけっこう聞くことがあって。そういった無意識の差別的な発言だったり、良心に基づく差別というのが気になっていたんですよ。

だから、そういうところを少しずつ刺激していけたらいいな、と。その思いは、漫画の後半からどんどん強くなっていきました。

この作品を描いて、私自身も意識が変わってきました。最初は気軽に描いていたんですけど、改めて、男装・女装の歴史やトランスジェンダーの本といった専門書を読んだり、講演会にも積極的に行くようになってきて。

そうやって情報を入れていくと、やっぱり言いたいことも増えてくるんです。今、連載は終わったけど、「何か私に出来ることはないかな?」というふうに考え始めています。それは、連載開始前とは全然違う気持ちですね。 私自身そうだったんですけど、10代の頃にLGBTの世界に入るには、夜の世界だったりネットで知り合った人と出会うとか、リスクの高そうな道を進むしかなかったんです。私はたまたま人に恵まれて、大きな事件に巻き込まれることもなく、楽しい出会いだけがあったんですけど、そうじゃない10代の子がたくさんいることも知っています。

LGBTについて悩んでいる10代の子が、親じゃなくて例えば塾の先生とか私みたいな「斜め上の大人」に相談できる場所があると良いな、と思ったりしています。

多分これからも私が“LGBT活動家”と名乗ることはないと思いますが、私が出来る範囲で何かをしていきたい、とは思うようになりました。

──連載を通じて、コタさん自身もLGBTについて深く考えるようになった、と。ほかにも、新たにLGBTについて発見したことなどはありますか?

コタ 発見だらけでしたね。多くのトランスジェンダーの方とは連載を通じて出会うことができました。法的なことを含めて、具体的なお話を聞いて、知らないことや衝撃がたくさんあって、すごく勉強にもなりました。

垣根がなくなりつつある世界への過渡期

──『ぼくたちLGBT』の連載を通じて、編集部の方は、ご自身の中で何か変化を感じる部分はありましたか?

山口 「この作品を担当したよ」と友人に話したら、その人から「私の周りにもゲイがいるよ」という話を聞くことがあって。知らされてなかったけど、そりゃあえて言うことでもないじゃないですか。

だから、こうやって発信したことで、「自分の周りにもLGBTの人はいるんだな」というのを実感するようになりました。

清宮 青年漫画をやるからには、LGBTといった題材は避けられないし、逆に取り上げたいと思っていました。世の中のリアルな実態やより身近な気持ちを描かないと、青年誌である意味はない、と僕は思っているので。

青年漫画誌の編集を30年以上やってきて、エンターテインメントを中心にした場合、どうしてもバトルやラブコメ的なものに流れていってしまう。でも、本当にそれでいいのか? という思いがありました。だから、この作品でLGBTというテーマを扱えたのはすごくうれしかったです。

今は、他社でもそういった作品が出てきています。漫画界全体でLGBTといったテーマを取り上げて、挑戦できるというのはうれしかったですね。

山口 コタさんも描いているうちに変化があったり、リアルタイムで用語とかもどんどん増えていったり、制度が変わったりしています。「バイキュリアス」(同性にも興味を持つ人)というカテゴリがあって、(性的指向についても)まだ揺らぐ場合があるんだな、というのはコタさんの漫画を読んで知りました。

そういったリアルタイムでの変化がわかるというのも、エッセイ漫画の良いところだと思います。

今、(インタビューで)話をしていても、育児のことを描くのもいいかもしれない、っていうアイディアが生まれてきたり。確かに、LGBTの方の育児はどうなんだろう? とも思います。

世の中の流れとしては、コタさんがやっているジェンダーフリーの育児が普通になるのがベストじゃないですか。子供の持つランドセルの色は何色でもいい、っていう。

コタ 保育園には「息子はピンクが良いっていうけど、説得して黒にした」というお母さん方もいらっしゃいます。それはお母さんの息子への愛や配慮だったり、息子さんの気まぐれだったりするかもしれないから、一概には言えないんですけど、そもそも「男の子がピンクを持つといじめられるかも」という空気さえなくなれば、もっと選択肢が広がるのにな、と感じたりします。

──日本ではまだ既存のジェンダー観が根強い、と感じますか?

コタ 子供の持ち物の色だったり、そういった小さい部分で感じることが多いですね。だから、またどこかでそういったことについても描けたらなぁと思っています。

以前、『LGBTが気持ち悪い人の本音 「ポリコレ棒で葬られるの怖い」』(外部リンク)という記事が出てましたよね。その方の言うことがわかる部分もありますけど、「今、この記事を出すのは早いんじゃないか」という意見にも共感したんです。そうやって世の中が動いているというのは感じています。

──これはあくまで僕の持論なんですが、多分、“生きやすさ”には世界の中で限られた総量があって、LGBTが権利を主張すると、ヘテロにとっては、「これまではOKだったものが今はダメ」ということになって、息苦しさを感じてしまうんだと思います。そこから「LGBT=面倒くさい」という空気も生まれてしまうのかな、と。

山口 とんねるずの保毛尾田保毛男問題も、昔はギャグとしてウケていたけれど、今は社会的な部分で「ちょっといかがなものか」と言われるようになったというのが、ヘテロ側の感じる生きづらさにつながってきたりするんでしょうね。

コタ 保毛尾田保毛男問題の時に、乙武さんがブログに書かれていたことがすごく印象に残っています。「将来的にはLGBTや障害もネタに出来る世の中になってほしいけど、それまでに超えなければならないハードルがたくさんある。そのハードルをクリアできた時に、僕のことをイジってください」と書かれていたんです(外部リンク)。

多分、ハードルを越えるまでには、ヘテロもLGBTも息苦しさを感じるだろうなって。でも、今、自分たちが生きていく中で、実際の線は存在していなくても、同性婚や性別変更といった法的な線は存在しているから、イジっちゃいけない部分はたくさんある。

将来的に目指すところは、全員一緒なはずなんです。垣根がなくなって、ネタにもできる世界。カミングアウトという概念がない世界。今はちょうど、その過渡期かなと思っています。

──『ぼくたちLGBT』は、そこへと至る“入り口の入り口”として、描かれた作品なのかな、と。

コタ 私の漫画家としての力がもうちょっとつけば、もっと読まれる作品になるだろうな、とは感じていました。だから、今後も漫画家としてレベルアップしつつ、私にできる範囲で発信できれば、と思っています。

──本日はありがとうございました。

ライターからのあとがき

本連載の担当編集・新見から、この連載『LGBT表現が生まれ、送り出される現場』に「あとがき」をつけるよう言われたので、今回からあとがきを書くこととなった。

基本的にはインタビューを読んでいただければ十全なのだが、「あとがき」では、インタビュー中の『LGBTの当事者が「誰かに話したい」という欲望を持っていることを強く感じたりしますか?』という質問について、簡単に話をしたい。

本連載第2回にご登場いただいた『そらいろフラッター』(スクウェア・エニックス)の原作者・おくら氏も、インタビューで以下のように発言している。

「ゲイを秘密にしてる人たちって、絶対にどこかで自分のことをしゃべりたい欲があると思うんですよ。当時、興味本位でもいいから、自分のことを聞いてくれる人がいたなら救われてただろうな、って。」(関連記事

コタさんにDMを送ってくる人々も、そういう気持ちなのかもしれない。おくら氏のインタビュー中しかり、そんな話を聞いた時、私の頭の中にはいつもある漫画の1シーンが思い浮かぶ。

「失礼だよ ゲイだからってすぐセックスの話をもち出すのは 若草さんだっていきなり聞かれるのヤでしょ? 少なくともぼくはいやだ ぼくは話したくない」 岡崎京子『リバーズ・エッジ』/宝島社/P134より引用

ゲイである登場人物の山田一郎が、主人公・若草ハルナからゲイのセックスについて根掘り葉掘り問われ、それに答えるシーンだ。

私は本作を読んだ高校生当時、気心の知れた数人にしかカミングアウトをしていなかったが、「むしろ、めちゃくちゃ話したいけどなぁ」と思ったことを覚えている。

別に、それは『リバーズ・エッジ』の人物描写を否定しているわけではない。今では、ただ山田一郎は“いきなりセックスのことを聞かれるのが嫌な男の子”だったのだ、と思う。(だから、実写版『リバーズ・エッジ』では「少なくともぼくはいやだ ぼくは話したくない」の部分だけ削られていると記憶していて、それを見た時ひどく残念な気持ちになった)

そんなふうに、“ゲイの男性”ひとつとっても、さまざまな考え方、趣味嗜好、性格、見た目、あらゆる要素が違っていて千差万別だ。『ぼくたちLGBT』は、“LGBT”と括られても、あらゆる人々がいて、その人固有の人生があることを描いている。だから、この漫画に描かれていることは、LGBTのすべてではない。あくまで、“入り口の入り口”にすぎない。

世界にはいろいろな人がいて、必ずしもみんなの利害は一致しないし、生きづらさや息苦しさは誰だって感じるだろう。マツコ・デラックスも「たとえゲイであろうと、ヘテロであろうと、既婚者だろうが、独身だろうが、人間って生きづらいのが当然」と話していた(関連記事)。

そんな中で、みんなが少しずつ生きづらいけど、それでもなんとか生きていける世界になればいいと思う次第である。

ちなみに、私は毎週のように担当編集に色恋の愚痴を聞かせて、今ではすっかり呆れられてしまっている。
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LGBT表現が生まれ、送り出される現場

“LGBTブーム”の中で、数多く輩出されるLGBT表現の数々。そこで“描かれなかったもの”、あるいはエンターテインメントだからこそ“描かれたもの”とは? 作者と送り手へのインタビューを通じて、LGBTと社会との距離を推し測る。

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